ちょっと、言わせてもらっていいですか?

今回はちょっと、不平不満を言ってしまいそう。


わちきがイタリアに住むようになって、色々葛藤することはいっぱいあるし、外から日本を見てて葛藤することもいっぱいある。それは、イタリアを外のめで見るし、日本に対しても日本のことがわかる故に、また、比べてしまうから、葛藤をせざるを得ない。


イタリアに対しての、葛藤を少なくするためには、イタリアをいろんな角度から理解することだった。イタリアの歴史を知る。それによって、ああ、だからかあ〜、と許せることが出来るようになってきた。しかし、どうしても許せないことが、1つだけある。


日本に対しては、外に出ることによって、日本の文化、メンタリティーにたいして、尊敬するようになった。全てとは言わないが。でも、素晴らしい国だと思うようになった。その反面、日本に住んでなくてよかった、と申し訳ないが、思うようになった。


どうしてもイタリアに対して許せないこと、というのは、小さいことかもしれないが、ジョークで人を傷つけること。これは、イタリアに限ったことではないけど、人を笑わせようとジョークをいう人がいる、言われた人の気持ちを考えずに。人によっては、多分、なんでそんなことを言うのか、と感じて口をつぐむか、一緒になって笑う人、注意する人は誰もいない。多分、よその国でもそうだと思う。


何年か前に、愛知の大学だったけか、福島県から来た学生にたいして、放射能に関するジョークを言って、外国からきた非常勤務の講師が辞めさせられた。福島県出身のわちきからしたら、言われた方もかわいそうだけど、しかし、同時に辞めさせられた講師もかわいそうと。彼はにとっては、ただ笑わせようと軽い気持ちで、言ったジョークだったと思う。多分、深く福島県人が抱えてた気持ちがわからなかったから、仕方なかったのではと思う。
日本人の中でさえ、それ以上のことがあったから。わちきは、そっちの方が許せなかった。
日本のことを知らない外国人より、日本人でありながら、傷ついてる同胞を、と。


日本人は他の国からすると、ほんと真面目で、相手を思いやるその思いやり方が深いというか、角度が違うというか、ほんと違うんだよね。だから、真面目すぎて、日本にいると外国人のジョークが受け入れられないと思う。
2011年の地震があったあと、原発の問題が出た時、フランスの有名な新聞の一面記事に、日本でのオリンピックのことが題材で、日本の選手たちの足が3本だったりして、オリンピックに参加してる風刺の絵が乗った。わちきは、それを見て腹がたって腹が立って、主人に言ったら、笑って本当だろ、と言われた。
と、いう風に、これがここではこんな感覚。だから、他の国を理解しないと、いろんな誤解が生じてしまう。
でも、人を傷つけるジョークはやめてもらいたい、それで、よくジョークを言うイタリア人の友達に言ったら、わかってもらえたようだ。みんな悪気がないから。ただ、考えないからわからないだけ。だから、説明するとわかってくれる。


日本に対しては、人を不健全にする食べ物は、作らないでほしい!
調味料とか、保存剤とか、綺麗に見せる物とか、色々。短い時間で作るために、また、ながくとって置けるように、とか、インスタントにして、主婦の仕事が楽になるように、とか。それが作られるようになった目的、考案した人の動機は嬉しいところもあるが、それによって、ガンにかかりやすくなるとか、色々あるでしょ。
日本にいたら、もうそう言う食べ物が当たり前だから。そ言うことすら、知らないと思う。でも、今は少しずつ改善されてきてるようだね。表立ってきてるから。


びっくりするのが、ポテトチップス。いろんな味があるでしょ、日本は。昔は日本のポテチ大好きだったけど、今はあまり美味しい、とは思わなくなってきた。でも、日本に行ったら少しは食べるよ。イタリアに帰ってきて、ポテチを食べると、イタリアの方が美味しいと感じる。
イタリアは、今は増えてきてるけど、数年前までは、塩味、トマト味、パプリカとか、そんなシンプルなもの。今は、もっともっと出てきてるけど、イタリア独特のやり方で味付けしてるから、日本の味とは違う。でも、それでも、やっぱり少ないよ。なぜなら、材料に対して厳密なので、体に害を及ばすことがわかってるのは、あまり入れられないから。だから、化学薬品を使わないで味を出すのは簡単じゃないから、日本みたいに種類は作れないと思う。
でもここでも、何が入ってるか一応チェックして買ってるけどね。日本で、チェックしてたら、食べるもの限られちゃうから、日本に行った時だけ食べたいの食べてる。
だから、日本に住んでなくてよかった、と正直思う。早く、日本ももっともっと、食品のあり方に責任を持って考えてほしい、国民のために。


だから、これを読んだ方は、なるべく食材を手に入れて、大変かもしれないけど、自分で作る時間を増やしてみてください。それが、どんなにシンプルであったとしても、既製品とは全然違います。愛情もこもるし。

え〜、嘘でしょう!

ここイタリアに住み始めるまで持っていた知識と現実が違ってたことに、大きなショックを受けたことが、いくつかある。その1つは、音楽について。


日本人の持ってるイメージは、多分、ヴェニスのゴンドラをこぐ人はみんな歌を歌うし、イタリア人も歌が好きで、音符も読めて、音楽に関する知識がある、と。
しかし、現実はというと、ゴンドラに乗った時に歌を聴きたい時は、予約がいる、ということを聞いたことがある。義理の妹さんに聞いたら、歌える人はあまりいない、と。ヴェニスに行った時、船頭さんの1人が歌ってるのを初めて見て、びっくりしたものだった。しょっちゅうヴェニスに行くわけじゃないけど、見たの初めてだったから。それっきり、見たことはない。


わちきはカトリック教会のコーラス隊に入っている。20名くらいいるけど、楽譜読めるのは、先生と伴奏者と私だけ。それで歌を歌うのである、楽譜を持って。教える側はどんなに大変か、そして学ぶ側は、どれほど耳がよく、勘がよく、記憶がいいか。ほんと、わちきはみんなを尊敬してる、本気で。わちきは楽譜が読めるから、すぐ歌えるけど、みんなはそうじゃない。まず、先生がピアノを弾いてメロディーを聞かせ、歌って見本を聞かせ、音符の上がり下がりをみて、勘と記憶と練習で旋律を覚える。
これは、わちきのだけのところだけかと思いしや、友達のところもそうだった。だから、その友達は、もう疲れてやめてしまったと言ってた。彼女も音楽を勉強してたからね〜。私も、その気持ちはよくわかるけど、わちきがコーラスに入ったのは、ある目的があったからやってられる。
実際、他のイタリア人の友達に聞いても、楽譜を読める人はほとんどいない、音楽を専門で勉強してるか、個人で習いに行った人じゃない限りは、ほとんど読めない、ということだった。また、楽器も歌も学校で教えるのは限られてるから、発声法を理論だけでも知ってる人も、あまりいないんじゃないかな。日本では、お腹に空気を入れて云々と、習うでしょ。
なんかショックだった。


ビバルディ、パガニーニ、ロッシーニ、モーツァルトに出てくるサリエリ、ヴェルディ、プッチーニと有名な音楽家をあげればきりがないくらい、作曲家、演奏家が、昔からいっぱいいる。でも、イタリアの一般にまで教育がなされているわけではないのである。昔は仕方ないけど、今も。


でも、みんな歌を聴くのが大好き。でも歌う人はあまりいないかも、家の中でも。テレビで音楽が流れてきて、好きな曲だったら、少し口ずさんだりするかな。でも、あんまり歌う人はいないかも。
あれ、日本もそうかな?でも、カラオケに行ったりするよね。ここそういうとこないし、今、家庭で持ってる人はいるけど、あまり使ってないと思う。なんか、友達同士で若いこたちがやるのは、たまに見たり聞いたりするけど。近所でも、やったりしてるから。でも、ほんと、たま〜にだよ。


それよりは、ここはダンスの国かな、音楽に合わせて。タンゴ、チャチャチャ、ワルツ、色々あるけど、わちきはダンスのことはわからん。でも、結婚式にも踊るし、夏のお祭りには欠かせないし。ダンスをしないわちき夫婦は少し恥ずかしい。でも、夫婦でやる踊りはいいなぁ〜と思う。見てるだけでもハッピーになる。義理のお母さんも若い頃は、いっぱい踊ってた、と言ってた。でも、義理のお父さん恥ずかしがり屋で踊らないから、友達とか親戚と踊ってた、と。


わちきの住んでるとこは、北のほうだから、南のナポリとかに行くと、どうかな、歌う人も多いかも。日本でよく習う音楽は、ナポリソングだから。
ナポリソングは、ほんと、日常での愛の思いが歌に現れている。恋人への思い、お母さんへの思い、ふるさとへの思い。思いが言葉になり、メロディになるという感じ。
イタリアの歌謡曲なんかは、ほんとよく喋ってる、と言ったら変だけど、独り言にメロディーがついてる、という感じ。だから、イタリア語を話せないと、イタリアの歌謡曲歌うの大変。歌曲とかは、違うけどね。


イタリアは、自分の思いをそれぞれが大切にして、それを料理、音楽などを通して伝えていってるのかもしれない、と思った。だから料理なんかも、ゆっくりと思いを込めて料理する家庭料理が多いかも。イタリア人は合理的というものにあまり興味がないようである。それが、社会の流れのテンポをとても遅らせてるけど、それもまた、イタリアらしいのかもしれない。

学校って何するとこ?

わちきに子供ができて、子供を通してより一層イタリアの社会に馴染むことができた。ほんと感謝してる、子供に。それがなければ、主婦をしてるわちきに取って、イタリアの社会に入っていく機会はあまりなかったかもしれない。仕事をしてたら別だろうが・・・。選挙権もあるわけじゃないし、政治に関心があっても何を言えるわけでもないし。


幼稚園に入るようになって、イタリアの大人がより見えてくるし、子供たちの社会も見えてくる。よくも悪くも、ここで生きてく限りは、中に入っていかないといけない。しかし、流されてイタリアの文化全てに染まることは避けたかったので、いろんなことを考えさせられた。今も・・・。


子供ができる前に主人と2人で観光地に行った時のこと、高校生1年生ぐらいの子たちのスクールトリップと一緒になった。自由行動かどうかは知らないが、一応ぞろぞろと、途切れ途切れのグループになって見学してた。その流れから離れてるこもいた。そして、集合の声がかかったが、生徒はすぐには集まらない。5分経っても集まらない。先生が、声を張り上げ集合をかけてた。日本では、あまり見られない様子だった。その時、イタリアの学校ってどんなとこ?という疑問が湧いた。
イタリアの小中学校は、基本的に校庭がない。あっても狭く庭のようなもの。だから、敷地が狭い。日本の小さな図書館とか公民館みたいな感じかな。だから、道路から学校の建物は近いし、2階の教室は道路からは中が見えないので、道路側に面してたりすることもある。
ある時、ある中学校のそばを通った時のこと、”Sta zitto(スタ ズィット)‼︎!”と、大声で言ってるのが聞こえた。それは、日本語で言えば、黙れ‼︎! ということ。静かに、とか静かにしなさい、とかいう言葉じゃなく、黙れ、という言葉だったのでびっくりした。学校の先生がそんな言葉を使うなんて、と。ますますどんなところか関心がより強くなった。


細かく言いえば色々あるけど、それを言ってらきりがないので、学校の目的と国民的キャラクターに絞ってわちきが体験したこと、見たことで感じだことを綴ってみたい。


まず、幼稚園は、公立と私立とカトリック幼稚園がある。小さい町は、公立だけの幼稚園、または、カトリック幼稚園が一つだけとかである。大きい町は、その3つの種類の幼稚園がある。小学校は、公立と私立。30年前ぐらい前までは、公立学校でもカトリックのシスター(修道女)が教えてたところが多かった。今は、普通の人が教育免許を取って教えてる。
幼稚園は、基本的なことは、家を離れて他の人たちと一緒に過ごしながら、それをまとめる先生がいて、その先生のいうことに従ってやっていくことを学んでいく。そして、友達を作り、みんなで協力して、みんなで何かをやる喜び、他人を尊重すること、そして、決められた時間の中で、嫌でも我慢してそれについていく、等々を慣れさせていくところである。それは、日本も同じだと思う。それプラス、学校によっていろんなことを教育してると思う。


しかし、小学校は日本と全然違う。
小学校からは、イタリアでは勉強するところ。それが主な目的。多少、集団行動を通して、人を尊重することを教えるが・・・。しかし、それは集団行動に影響が出てきたり、学校が乱れてくるため、先生方の舵を取りやすくすることもあると思う。本当に、生徒個人のこととか、子供たちの教育を考えて、ということは正直言って感じ取れない。
勉強についてこれない、先生の指示に従えない子に対して、その子の親は色々先生から言われる。まあ、先生方が言いたいことは、親の責任だ、ということで。先生方からすれば、私は教えてるのに、あなたの子はなぜできないのか、なぜ他の子ができることが、あなたの子はできないのか、親が勉強のサポートができなければ、誰かに頼みなさい、ということだ。


日本は、義務教育の場では、社会に出るための準備をするところだし、学業とともに、子供の内外ともの成長を考え、教育していく。だから、社会のシステムをもっと小さな規模と単純な次元で体験させていくでしよ。だから、児童会があるし、部活を通して、先輩後輩を教えるし、小学校生活で色々学べる。すごいことだよ、これは。


イタリアの学校は普通、音楽会や体育会、入学・卒業式がない。
学校によって、クリスマス会とか、学年が終わる時に、終業式ではないが親を呼んで子供たちによる出し物を披露するところもある。とにかく、その年に何をするかは、学校によって決められるので、毎年方針が変わることもある。
1つだけ、一番子供たちが楽しみなことは、1年に1度のスクールトリップである。


小学校の教科は、国語・算数・理科・歴史・地理・英語・体育・音楽・芸術。このうち、体育・音楽はいつもあるわけではない。学校によっては、教えれる先生がいない。市で予算がないので教師を雇えない、ということで、学校内にいる先生が教えたりすることもあるが、難しい時もある。だから、勉強の嫌いな子が、最初の6教科以外の教科を楽しみにする、ということができないこともある。
勉強が好きな子はいいけど、5年間の小学校生活は、うちの子にとっては地獄のようなものであった。学校にはなんの楽しみもなく、ただ、友達に会えるということだけだった。それで、頭痛や腹痛を起こしていた。登校拒否の症状が最後の方に、少し出てきた感じ。
人によっては、精神的に弱い、と思われるかもしれないが、楽しいことがないところで、好きでもないことをして、尊敬できない、好きになれない先生と、5年間一緒にいることを考えて欲しい。本当に、前向きにさせることは大変なことであった。
イタリアは基本、1年生の時の先生が、持ち上がりで5年間小学校が終わるまで同じである。


イタリアの国民性は、基本自分は仕事をやってるんだから、問題があった時は、自分のせいではない、という考えの傾向がある。勿論、そうでない人もたまにいるが。だから、他人や物、社会に対して責任をなしつける。自分が責任を持って、まずは自分からという日本みたな思いが足りない。それが、学校の先生もそんな感じだから大変。自分はちゃんと教えてるのに、どうしてわからないのか、と子供を怒り、親に文句を言う。
生徒たちが私たちのいうことを聞かないのは、親が、家庭が問題、ということを遠回しに言う。それもあると思うけど、どんな教え方、言い方をしたら、今受け持ってる生徒たちは聞くのか、と言うことをもっと考えて欲しい。その上で、こうして欲しい、となれば親たちも違うが。
先生方は自信があるから、教えたやり方で答えを出していかなかったり、先生の機嫌を損ねたりすると、いい成績がもらえない、特に小中学校は。勿論、全てというわけではないが。一見個性を尊重するように思われがちかもしれないが、発想や芸術面ではそうだと感じるが、特に数学関係は、教えてもらってる先生のやり方でやらないと、答えが当たってても喜ばれない。国語の作文なんかも、先生によっては、個人の表現を大切にするというより、先生の表現法になおされたりすることもある。
とにかく、イタリアはいい先生に当たればいいが、そうでないと学校生活が灰色になる。


イタリアは、3年間の中学校が終わると、高校はほとんど専門分野に分かれる。途中、選んだ高校がが合わない、ということで学校を変えれることもできる。3年間は一般理論と基本的なこと。そのあとの2年でよりレベルの高い専門的知識を入れていく。そのあと、大学に行ったり、専門の資格をとるための学校に行ったりする。
本当に勉強が嫌な子は、高校3年で辞める子もいる。その子達は、就職はできるが資格はもらえない。


わちきが思うには、イタリアの学校と日本の学校を比べた時、同じ学年だったら、イタリアの方が教えてる内容は深いと思う。中学校の教科書を見ると、教科によっては日本の高校でやってる内容があったり、普通の学校で習わないことも色々やってる。わちきは逆に、中学校でここまでやる意味があるのだろうか、と思うことがあった。
勉強に関心ある子は、イタリアの学校は面白い。わちきも、今だったらイタリアの中学校に行きたかった。


ちょっと、今日はイタリアの悪口になったかもしれないけど、これが現実。どこの教育の場も、いい面悪い面があるよね。